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第5回 小林利雄、かく語りき・其之壱

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第5回 小林利雄、かく語りき・其之壱
~颯爽!「月光仮面」登場!!

岩佐陽一

column5-01 本連載「小林利雄伝」も今回にて5回目。ようやく折り返し地点を迎えた状況だ。そこで、真打ちとでもいうべき小林利雄氏にここら辺でご登場頂こう。
もちろん、小林氏ご本人は一昨年の4月に逝去されているので、ここに掲載する証言はご生前のものである。

 1996年に刊行された『シルバー仮面 アイアンキング (スーパーロボット)レッドバロン 宣弘社ヒーローの世界』(双葉社)及び、’05年刊行の『ネオンサインと月光仮面』(佐々木守・著/筑摩書房)における取材テープより、抜粋・再構成し た、当時としても、そして今となってはさらに貴重な証言をお届けしよう。
 まずは定番、昨年“生誕50周年”を迎えた『月光仮面』にまつわるお話から。
小林「当時(1950年代)、ラジオはやっていました。我々は広告代理店ですから本来、制作は関係なかったんですけど、やらざるを得なくなりましてね。そ れで制作から全部やり出したんですけれども。やはり、自然に欲が出まして。自分の作ったものを出してみたいという気持ちになってきて、それでいろいろとや り始めたんです。結局、代理店の考え方なんだけど、“やっぱりいいものを出したい”ということで。他社が作ったものを集めても、結局不満なんですね。最後 は自分の思ったやつを出していきたいということになっちゃって。“だったら自分で作ればいいんだ”と。それでどんどん作るようになっちゃったのね(笑)。 ラジオ番組については実はあまり関心がなくてね。どうしてもテレビのほうに移ってきまして。最初が『月光仮面』ですね」
 “自分の作ったものを出してみたい”、“だったら自分で作ればいいんだ”という発想こそ“ものづくり”の原点に他ならない。
 小林氏が一流のクリエイターであった、何よりの証だろう。
小林「川内康範先生は、前番組の『ぽんぽこ物語』をやってたんだけど、視聴率が全然取れないんですよ。それで康範先生に、“今アメリカで『スーパーマン』 が当たっているので、あれの日本版をやりましょうよ”という訳で。それが『月光仮面』の原型です。“自分がアメリカで見て来たことを、日本に帰って来てか らやろう”という想いが強かったですね。『月光仮面』の(発想の)根本は、向こうからのものです」
 ここで少々補足すると、『ぽんぽこ物語』は『月光仮面』の前番組で、TBS製作のスタジオドラマだった。宣弘社はその広告代理を務め、康範先生はTBS からの依頼で『ぽんぽこ物語』の脚本を執筆していた。その『ぽんぽこ物語』が視聴率不振で打ち切られるにあたり、後番組の制作を宣弘社が請け負うこととな り、その内容に関して、小林社長が康範先生に相談を持ちかけたというのが、『月光仮面』誕生の経緯だ。
 お二人はそれまで面識がなく、その会食をセッティングしたのは、当時TBSで『ぽんぽこ物語』を担当していた今道潤三氏(後に同社社長に就任)だったとのこと。
小林「それで最初、康範先生がお医者さんの話を持ってきたのね。ところがお医者さんの話はスポンサー的にも難しい。それでやらなかったんです。だから、そ れに関しては先生のアイディアだけで終わったんですけど……あの方はすごいアイディアマンでしたよ。歌詞は書く、題名は決める、すべて先生の鶴のひと声で 決まっちゃうんですからね(笑)」

column5-02 賢明な読者諸兄は、本連載の第3回目で、元武田薬品工業宣伝係長の中尾清義氏が、“そのとき、話があったのは医者を主人公にしたドラマだったんです”と証言されていたことを憶えておいでのことと思う。
この小林氏の発言は、まさにその裏付けといえよう。
 小林社長のアメリカ視察の経験、康範先生の慈愛の心、そして、スポンサーたる武田薬品工業の冷静なジャッジが、『月光仮面』という本邦TV史に残る名コンテンツを創造したといえるだろう。

次回はその『月光仮面』の後継者たち、『遊星王子』以降の宣弘社ヒーローについて小林氏が語った証言の数々をご紹介しよう。

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